辰夫の武道に対する考えです(その2)   稽古に思う

  武道論1を書いてから随分時間が過ぎました。「強くないと空手じゃない」という1つ目のテーマに対して皆さんからの意見は少なかったですね。今日、古い空手雑誌を見ていると「寸止め空手は無意味だ」「フルコン空手の方が実践的だ」「フルコン空手は顔面パンチが無いから非実践的だ」等々の意見が毎月のように載っていました。最近はそのような意見より「お互いの良さを認め合おう」という意見が多いようです。視野の広い人たちが増えてきたことの現れでしょうか。それとも・・・・。

この武道論2では、私の空手道の稽古において感じた事の一部を記したいと思います。

私は幼稚で単純な動機で正氣会空手道場に入門しました。ただ強くなりたい。強い男はかっこいい。かっこよく悪い奴らをやっつけたい。そんな程度のものでした。稽古の中味は毎日それ程大きな変化はなく、それでも毎日練習が楽しみで仕方ありませんでした。私も少し腕力に自信はありましたが、緑帯の先輩が恐ろしく強く、黒帯の人は雲の上の人でした。今も黒帯に対するこだわりはあります。

私が入門した正氣会本部道場では試合に勝つ(寸止めルールといっても手に小さい拳サポをつけ素面で当てていた)という考えを持つ前に、空手という格闘技の強さを追求する人たちが眼前の相手を倒すことに稽古の価値を見出し激しく稽古をされていました。

道場では素手で素面を殴っていました。二人組で行う一本組手(攻撃手と反撃手を決め、約束した技で攻防の稽古をするもの)において攻撃技を出し終え、無防備状態にある相手に対して顔面を突いたり、膝蹴り、肘打ち等を当てる(勿論、先輩が一方的に当て後輩は耐える。)という理不尽極まりない稽古もありました。

怪我は絶えませんがこのような稽古によって精神力が鍛えられていくのも事実でした。ある限界を越えると正常な精神状態ではなくなり安定なレベルを超えた異常な状態になり、そこから再び力が湧いてきたからです。心臓が破裂しそうなくらい追い込んだ運動の後で、それを乗り越えられるように。痛さを越えると恐怖も乗り越えられたと記憶しています。

しかし、過去のこのような稽古に感謝しながらも、私はこの種の稽古はさせたくないと思っています。それは自己制御力を失った状況で発揮する力だからです。何のために鍛錬するのか?何のためにレンガを割るのか?何のために強くなるのか?何のために強さをアピールするのか?空手で鍛錬し、強くなって何の役に立てるのかが重要であると思います。空手をしたために傷害事件の加害者になっては悲しいが、空手で身を守ることが出来ればすばらしい。空手をしたけど何も身に災いが降りかからなければもっとすばらしい。

つまり、正常な精神状態をどれだけ高められるかが稽古の目標であると思うからです。空手の稽古は鍛錬や組手など痛いことが多すぎますが、私は喜びを感じていました。先輩との稽古では必ず血を出す(当然後輩である私の血ですよ)までは終わってもらえない毎日でしたが、流した血を道衣で拭いて喜んでいました。洗わずに血の匂いのする道衣を誇らしく思っていました(自分は頑張っているぞーとアピールしたかったのでしょうか?)。奇異に見えるかもしれませんが空手を続けている者は確かにどこか面白い自虐的なところがあるなあと思います。子供っぽいのでしょうか。いえ○○しているつもりなのです。

殴られて怪我する痛さは一瞬なのであまり痛いと感じたことはありませんが傷口が化膿した時の痛さは耐えがたかったですね。怪我よりその後の痛さの方が空手の痛さよりはるかに厳しいものでした。食事をすることが苦痛な日々ほど辛いことは無いと思いました。しかし、食事ができなければもっともっと辛いことですよね・・・。

稽古を重ねるにつれて、試合や本部道場以外の人との稽古を通じて自分が強くなっていく実感がありました。試合や強化練習会で突きや蹴りを受けても、道場の先輩ほどには身体に応えないが、相変わらず顔面に攻撃を受けてしまう自分の未熟さと空手の突き蹴りの威力に疑問を持つようになってきました。

道場の先輩はその当時できたプロ空手の負け役(怖いマスクの持ち主だったので)でテレビにも登場されていました。その先輩に自分の技を効かせたいと思い日本拳法の稽古を始める