辰夫の武道に対する考えです(その3)   拳法との出会い

とにかく、肉体的な強さを求めて、日本拳法を始めることになったのですが、その拳法との出会いから記したいと思います。

大学に拳法部があったのですが、当時の私は少林寺拳法のことだと思っていました。初めて日本拳法の存在を知り、歴史は日本にある少林寺拳法(戦後)より遥かに長い歴史を持つものであると知りました。

ある日、大学の体育館にて、とても滑らかに突き蹴りを出している学ラン姿の学生を見て、あれは一体なんだろう?空手じゃないし少林寺でもない・・・友人に聞くと「あれは日本拳法や!」と教えてくれました。当時、直線的な空手の動きしか知らなかった私にはそのしなやかで無駄の無い動きがとても印象的でした。(その動きの主は、後に拳法部で同期生となる三宅淑夫であった。)

しかし、練習してみると基本の突き蹴りの練習はスローモーションで、空手の素早く力強い動きとは雲泥の差であり、私は内心『これは本当に強いのかなあ?』と疑りながら練習していたのです。友人は「拳法は喧嘩やで、何してもええねん・・・。」と言っていましたが、この言葉は決して日本拳法を高く評価している言い方ではなかったと記憶しています。『素人の喧嘩みたいやから普及してないのかな?』そんな気持ちを持ちながらも自分のやってきた空手がどのくらい通用するのか全力で技を出せることに充実感を感じて練習していました。

しかし、ある日1年後輩(高校での経験者)で私よりかなり小柄な平田詠二という男と対戦したとき、私の突き蹴りがまったく当たらず、私は顔面・側頭部・顎等に横打ち(フックパンチ)や揚げ打ち(アッパーパンチ)を何発も受けてフラフラにさせられた屈辱的な出来事がありました。完全にKOというところですが、後輩ですので遠慮してくれたのでしょう。このお陰で、私は真剣に日本拳法を練習するようになりました。今まで自分が少しは自信を持っていた突き蹴りが、グローブや防具をつけると何と無力になってしまうことか、その後の先輩達との練習で思い知らされました。

私の効かない技のあとから強烈なパンチをもらい鉄面も変形しました。頭蓋骨の形も変わりました(嘘ではありません)。首の捻挫を繰り返すうちにだんだんと首も太くなり衝撃に耐えられるようになっていきました。私は日本拳法の表面しか見ていなかったことに気が付きました。

遅い動きは当て合いしているときであって一人でイメージトレーニングしているときは速く滑らかな動きになっている。当てたあとの極めを考えないと速い動きができるということがわかってきました。グローブと素手のテクニックの違い、打ち抜く突きと打ち抜かない突きとで何が違うか、やってみて始めてわかりました。

グローブをはめると空手の多くの小技が使えなくなるということ、カウンターで無いとなかなか効かないということ、寸止めするよりKOパンチを打つ方が遥かに難しいということ。

ある日、グローブにも慣れ国体に出場する同輩のボクシング部員と蹴り無しでスパーリングしたとき、さすがにパンチの速さと無駄の無い動きに感心したものです。とてもパンチだけでは勝てないと実感しました。我々の単調な攻撃は容易く見抜かれ当たらないということです。(単調な攻撃ということでは今の空手選手にも当てはまりますが・・・。)

 このとき、彼らは我々のように毎日何時間もスパーリングをするわけではなく、めったにスパーリングをしないなぜこんなに動けるのか不思議でした。身体を壊さない効果的な練習について考えさせられました。

ボクシングはとても厳しいスポーツだと思います。自分がギブアップするまでさせられる競技と審判が試合の途中で『止め』を掛けてくれる競技では根本的に違います。そういう意味では空手や拳法のポイント勝負はボクシングやレスリング等の競技より精神的に楽な競技といえるでしょう。

日本拳法はとにかく体力勝負、組み付かれて倒されると体力の勝負です。組み打ちがあるので下半身を無防備で突っ込めないし、必然的に今の総合格闘技のようなスタイルになるのです。日本拳法はすばらしい総合格闘技です。ただ現在の日本拳法の唯一の弱点は蹴りに弱いことです。

澤山宗海宗家は『拳は鍛えなければ使えないが足は鍛える必要なし』とおっしゃっておられました。つまり普段から裸足で鍛えておられたから鍛錬の必要が無いだけで、靴を履く生活の私達には素足で鉄面を蹴るという先人のようなことは、かなり鍛錬しなければできない芸当です。

いまの日本拳法のスタイルにグローブと同じ観点から足にグローブを装着すれば、何十年も前に『酒井蹴り』と澤山宗家が称された(現在の後ろ蹴り)技等も復活して過去の日本拳法の強さが甦ってくるのではないかと思います。

空手道の技術はこの情報化の中で著しく進歩したと思います。全空連の空手も安易な防具をつけコンタクト技を有効にした試合が展開されています。頭を殴り合うということは大変な危険を伴います。

全空連系の試合で防具を付けているのに顔面部に裂傷を負う事故が後を絶たないのは防具の不備以外の何ものでもないと思うのは私だけでしょうか。とにかく頭を攻撃目標とする格闘技において、頭内部の損傷は深刻な結果を招くことになるので、選手の安全確保のため慎重なルール設定と運営がなされなければならないと思います。

1日に何試合も多くの得点を競い合うことで選手はより多くのダメージを受けていることを主催者は認識しなければなりません。ボクシングのように選手の健康管理に厳しい状況でも事故は起こっています。

今の空手のように何の規制も無く試合後の追跡調査も無く頭を打ち合いさせたまま何の対策も講じない試合を運営していけばそう遠くない将来に重大な事故が多発してくる事を私は危惧します。 空手もボクシングのように自由に打ち合いするようになるのでしょうか。もしそうなるとしたら、そのときから空手の衰退は始まると思います。

私は昔、『空手は女の子もするようになったし子供も増えているのに、なんでこんなに面白い日本拳法が流行らないんでしょう。』と全日本拳法選手権を連覇中の先輩に聞いた事があります。そのときの応えは『そりゃ殴り合いするからや』という一言でした。

思いっきり殴る爽快感は逆に言えば思いっきり打ちのめされると言うことです。過去の日本拳法はその屈辱的な毎日に打ち勝ったものだけが楽しめるものであったのかもしれません。自分で身に付けた防具が解けても、自己の責任であり容赦なく殴られ続ける。そのような厳しさも身をもって知り、強くなっていくのでしょうけど、耐えられない者は去っていきました。

しかし、私の先輩方は本当に優しかったと思います。練習には先輩も後輩も関係なく自由に全力で打ち合えるフェアな雰囲気があり、厳しい面はありましたが後輩いびりやパシリは無く人間味あふれる先輩達でよかったなあと大学時代がとても懐かしく思い出されます。

一見相手の人格を否定しなければできないように思える格闘技において、本来失ってはいけない最も大事な人間性を自由に打ち合う中で教えられた気がします。短い期間ではありましたが日本拳法発祥の地としての誇りをもって過ごせたことに大変感謝しています。その精神である『常に創意工夫し、乱の中から学べ』という日本拳法の広さが大好きである。空手の爽やかさも好きである。テコンドーの謙虚さも好きである。

強さを求めて始めた日本拳法によって得るものはたくさんありました。しかし失うものも少なからずあったと思います。組手が完全に拳法スタイルになり、空手の試合では出せる技が限定してしまった。形に対する考え方が使える形かどうかを一層強くこだわるようになり、理屈に合わない形の解釈に満足できず形の練習から遠のくようになったこと等々。

しかし、幸いにも初代渡辺勝正派糸東流空手道宗家が今里の本部道場で御指導されておられたので不明な事があると、すぐに教えを請いにお伺いしたものである。渡辺宗家が私のどんな質問にも直々御即答いただけるというたいへん恵まれた環境にあり、もっともっとお聞きしておくべきであったとあの日から思い知らされるのである。

それはAAU主催の全米空手道選手権で2つの優勝をはじめ好成績の報告をすべく、意気揚々とアメリカ遠征から大阪空港に戻ってきたときに、渡辺勝宗家の突然の御逝去を知らされた日である。

渡辺勝先生は、私をお供として防具付きの空手試合の普及のために沖縄の道場を訪問されました。剛柔流、上地流、等々の道場でいきなり防具を付けて組手をさせられました。この頃から私の中には『いつでも闘えなくてはいけない』という気持ちが固まったような気がします。渡辺勝先生にはもっともっと御指導をお願いしたかったと、後悔の日々が続いています。

ところで、空手を大別すると2つの考え方があるようである。1つは全空連系のルールの中に出てくる良い技の定義として「良い姿勢」というのがある。もう1つは拳法やフルコンタクト系の良い技の定義で「効く技である」ということである。どちらも正しいのかもしれないが、最近この意味を取り違えている人が多いので驚く、「良い姿勢」の技は必ず効くという理論である。

これは私も正しいと思う。ただ誤解しているのは「良い姿勢」というものを相手の状況に関係なく固定しており、まず「良い姿勢」なるものが存在するのである。これは取りも直さず、相手の攻撃さえも限定していることである。このような固定観念が日本の空手を弱くしていると私は確信する。

世界の空手は当然進むであろう方向へ進んでいるだけで、日本の空手が停滞しているだけである。身長差20cmで大きい選手が軽やかなフットワークを用い、小さい選手がどっしり構える。物理的に考えても小さい選手に勝ち目は無い。全空連の選手の運動能力は非常に高いと感じるが、それをまったく活かそうとしていない報告を雑誌等で読むと悲しくなります。

『小よく大を制す』を具現している他の競技をもっと研究するべきである。大相撲、スピードスケート、テコンドー等、よい手本はいくらもある。競技団体としての日本の空手は随分と遅れをとっている。

発祥の地として武術空手を研究しつつ、試合に勝つことを最優先されるのが全日本連盟の立場であるため勝つ空手を真剣に考えなくてはならないと思う。強さを求めて空手や日本拳法を練習したが、では何のために強くなりたいのか。『強くなると優しくなれる』とか昔は思いましたが、肉体的に弱くても優しい人は優しいし、屈強な身体をもっていても非情な奴はいる。健全なる精神は健全なる肉体に宿るというのが我々の願望である。だからチャンピオンは人格者をめざさなければならない。

健全なる肉体に健全なる精神がないと凶器である。チャンピオンが立派なのではなく、人間としてより成長しようとする向上心・人間性に価値があるのでしょう。強ければいいとは思わなくなってきたが、闘わずに闘えば必ず勝つなんて豪語している奴、徒手空拳の格闘技を稽古している連中を仲間とは見ずに敵としか見ない奴、試合に勝てばそれでいいと思っている奴らは格闘技をしてはいけないと思う。格闘技は真剣に相手の人間性を尊重できるものがしなければ、野蛮な下品な単なる喧嘩に成り下がる。

いつまでたっても剣道には追いつけない。

  空手の形試合のレベルの向上は著しい。見ていて惚れ惚れするぐらい美しく力強い形には感動する。しかし、まだ私には抵抗がある。形の稽古は嫌ではないが・・・・・・。

次は形試合について述べてみたいと思います。