辰夫の武道に対する考えです(その6)   スポーツと武道

 

小林辰夫の武道論6(2013.1.14執筆)

スポーツと武道の違いは何でしょうか。

 25年も前の全国中学生大会出場のサッカー少年たちのアンケート結果をどう見るか。

 「時と場合によってはファウルをしてもよい」という回答が80%以上あり「勝つためにはファウルをすることも必要であるか」も70%を超えているが「ファウルは審判に見つからないようにやるべきであるか」では50%強に落ちている。これはどう解釈すればよいのでしょう。

 反則することに後ろめたさはあるが、審判も認める程度の反則は許容されるということでしょうか。

 昨今、日本体育協会がフェアプレー宣言を推奨しています。勝利至上主義への危機感からでしょう。スポーツの意義が失われかねない危機を感じるからでしょう。アマチュアの定義も変化し「スポーツで得た名声を利用しない」などという文言は化石になってしまいました。

 往往にしてスポーツでは試合に勝利するためにルールを拡大解釈して反則すれすれの行為が許され、反則と明記されていない(ルールの網の目をくぐった)行為も許されるということです。

 先の全国高校サッカー選手権でもサッカー試合の定番である「相手にペナルティを与えるためにピッチで長い時間倒れ込む」選手がいました。倒れた選手に関係なく試合が続行されると彼はおもむろに立ち上がって試合を続けました。サッカー競技においては、このような行為が後を絶たないのは勝つための手段として認められているからでしょう。

 「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする」という誇りを取り戻してほしいものです。

 では武道とはどういうものでしょう。それは美しさを追求するものだと思います。その美しさとは姿や形ではなく精神です。精神が変われば行動が変わります。私は発展途上の人間ですから「空手道はどうあるべきか」を日々考え、悩みながら稽古しています。

 空手道は武道です。武道ですから「正々堂々」でないといけません。私は数多くの試合を経験しました。その中で忘れられない試合が3つあります。その中の1つは我が空手人生で最も恥ずかしい試合ですがここに告白致します。

 それは、対戦相手の上段突きを受けきれないで左目に突きを受けたときのことです。私は思わず左手で目を押さえました。それを見た審判が相手の有効技とせずに相手の反則技にしたのです。

 私は当時、日本拳法をしていたので突きのダメージはほとんど感じていませんでした。しかし、私が左目を押さえた行為によって審判は反則の判断をしたのです。私はその審判の判断を利用し明らかに負けていた試合に勝利したのです。

 30数年経過した今でもあの試合は忘れることができません。逆の立場になったことは幾度となくありますが、卑怯な方法で勝利した試合ほど心には残っていませんし誇りも失っていません。

 ルールの裏をかいて勝利を得ても誇りを失ってしまいます。武道が誇りを失えば武道ではないと思います。

 つまり、武道はルールに反則と明記されていなくても、恥ずべき行為をしてはいけないのです。本物を求めて競い合うことに価値があるのです。結果ではなく本物を求めているか。最高のものを求めているか。ということではないでしょうか。

 前回の

 ◇某空手道の大会規約の一部「小学5年生以上は黒帯にて出場する」の解釈を「小学4年生までは自由である。黒帯で出場する方が試合には有利だから黒帯でない選手も黒帯で出場させる」というのは恥ずべき行為です。

 ◇パラリンピックの某競技で「残り時間はわずか、そのままボールを制限時間までキープして勝利を得る」作戦は、スポーツおいては当然の行為かも知れませんが、武道においては恥ずべき行為です。  

 さて、現在の空手道の形試合は本物を求めているものでしょうか。最高の空手を求めているものでしょうか。「空手の稽古は形に始まり形に終わる」ともいわれます。それは「形の技を組手で使えるものに高めよ」ということです。

 形稽古は大切なものですが、あくまでも身体の鍛錬と攻防の基本なのです。

 今日は、たまたま全日本大会で入賞する女子形選手の形演武を目の当たりにすることができました。残念ながら空手の理と矛盾する動きに虚無感を覚えました。体重の移動と技の極めが連動していないのです。

 つまり自分の体重を全く活かせていないのです。自分より大きな力に抗する技が空手の技の神髄でしょうけど、今日見た技はその場基本突きが上手というレベルのものでした。

 形試合をすれば華法に流れるという典型でした。空手道の誇りを守るためには形試合の評価方法を変える(金賞・銀賞など)とか組手との複合種目として評価するとか体育的見地から小学生・中学生・初心者までにするとか改善しないと日本文化としての空手道を冒涜する行為になると思います。

 しかし、残念ながら次に来るのは形試合の自由演技でしょう。他の競技でもすでにその傾向があるので、間違いなくやって来ると思います。例えば体操競技ではすでに数年前から得点の上限は無くなりました(事実上はあります)。

 難易度の高い技を多く演じることで、得点がどんどん上がっています。かつての10点満点では矛盾が出てきたからです。現在空手の形試合で実施している指定形は間もなく差がつかなくなります。その結果、必ず自由形が必要になります。

 予選は7点台、決勝は8点台なんていう曖昧な採点基準が世界的に通用しなくなって旗判定になったのです。もっと明確な採点基準が要求されるでしょうし、今の形競技を続けるには指定形では対応できなくなります。回転蹴りや跳び蹴り、世界では恐ろしいくらいアクロバティックな技を出す人がいます。

 すでに日本選手でも団体形では殺陣師紛いの形の分解をして世界大会で優勝しています。この傾向は加速度的に進んでそのうち空手かスタントかわからなくなるでしょう。だから自由演技が現れることになるでしょう。「空手道とは何か?」を定義するのが難しくなるでしょう。

 それでも空手道を武道として位置づけるために、発祥地の日本空手道はそのあり方を世界に発信しなければなりません。「空手道は武道である」「結果よりも過程を重んじる」「勝者を称え敗者を労る」それが全日本空手道連盟の役割であり、私たち空手道を学んできた者の務めだと思います。

また書きます。
小林辰夫