辰夫の武道に対する考えです(その7)  体罰について

 

小林辰夫の武道論7(2013.2.17執筆)

 今、マスコミの話題になっている運動団体における体罰の問題について書きます。

 マスコミとはずいぶん勝手だなあと呆れています。何故かというと、今「体罰は悪である」という論調でいろいろな場面での体罰問題を報道していますが、過去の放送の中で「体罰を肯定している」放送が幾度となくあったからです。

 たとえば、一流と呼ばれる運動選手を集めて経験談を話すテレビ番組では様々な理不尽な行動を笑いネタにして堂々と放映していました。先輩からのしごきやいじめがあって当然という話の展開です。選手たちが卑怯なプレーを恥とは考えず、勝つための技術として自慢げに話すその開き直った醜悪な態度に対して憤りも感じました。

 つまり勝つためにはきれい事は言っていられないという風潮が日本のスポーツ界には蔓延しているのです。そういう風土を作り上げた要因の一つとしてマスコミの責任は大きいと思います。「あんな一流選手でも体罰を受けていたのだ」「やっぱり監督やコーチには逆らえないのだ」等々。 

 体罰問題は勝利至上主義と一体のものです。勝つために厳しい指導から理不尽な指導へと移行していくのです。だから多くの指導者は言うでしょう「仲良しクラブで良いのなら体罰なんか必要ないです」と。

 柔道はすでに「柔道」ではなく「ジュードー」というスポーツになり武道ではないのでしょう。それは柔道の精神(武道精神)を教えるべき日本柔道界が勝利至上主義になってしまったからです。これでは武道精神を指導できるはずはありません。

 前回も述べましたが武道とは過程こそが最も重要とされるものであり、結果で一喜一憂するものではないのですから・・・。これは全柔連だけの責任ではありません。マスコミを始め私たち多くの国民の責任です。 

 たとえば、オリンピックに出場しても関心を集めるのはメダルの数と色。メダリストが注目され4位では評価されないという風潮がスポーツの価値を貶めているのです。1964年の東京オリンピックで男子マラソンにおいて銅メダルを獲得した円谷選手が、周囲の期待に押しつぶされ自ら命を絶つという悲劇があったとき、スポーツのあり方が問われました。その後日本のスポーツ界は変わったのでしょうか?いいえ何も変わっていません。

 それどころかますますひどくなっているかも知れません。いろいろなスポーツのプロ化がどのような影響を与えているのか調査する必要があると思います。なぜならプロ競技は過程よりも結果を重視しなければ成り立ちにくい性質のものだからです。

 同じく東京オリンピックで金メダルを獲得し、その後も連勝を続け258連勝(数字は不正確です)という驚異的な記録を残し「東洋の魔女」と呼ばれたニチボー貝塚の女子バレーチームを指導する大松監督を「鬼の大松」と呼びマスコミはその練習を幾度となく放映してきました。 

 居眠りをしながらボールを追いかけ倒れた選手にもボールを投げつけていた練習風景をカメラに撮りながらマスコミはそれを非難したのでしょうか。いいえ、メダルの獲得や連勝に賛辞を贈ったのです。現に先のオリンピックでもメダルの獲得数を必要以上に話題としていました。スポーツは素晴らしいプレーを賞賛するべきなのに話題性を求めて報道するやり方に違和感を覚えます。

 女子ゴルフでは何年も日本王者に君臨していた不動選手を取り上げず宮里選手を大きな写真入りで記事にしたり、男子ゴルフではほとんど石川選手の話題で紙面を作り、もっと活躍している選手のことを記事にしなかったり、卓球では全日本王者よりも幼い愛ちゃんを写真入りで取り上げたりという甚だしい依怙贔屓(えこひいき)がまかり通っています。話が横道にそれたので元に戻ります。  

 桜宮高校生が、不幸にも自ら命を絶つという事象が起こったから体罰は良くないという論調になっているのではないでしょうか。もしも、あの生徒が耐え難い体罰という屈辱に耐えて大阪代表、全国大会入賞という結果を残したならば、周囲だけでなく本人もその指導を肯定する気持ちになっていたかも知れません。

 体罰は昔から訓練と共にあり、今も多くの競技団体の中で日常的に指導の一環として認められている現状があることは多くのスポーツ経験者に周知のことでしょう。「しごき」は昔からあり、世間はそれを認めてきたではないですか。知らないそんなことはないというのは見え透いた嘘でしょう。

 数年前の相撲部屋での死亡事件のときも相撲部屋の古い封建的な組織が問題にされましたが、それにもかかわらずこのような不幸な事件が後を絶たないのは体罰と勝利至上主義が同質のものだからです。

 命を落とした少年の気持を封じ込め、本音を伝えられなかったのはなぜか。

 チームが勝利を求めすぎていたからではないのだろうか。苦しんでいる仲間を助ける事ができなかったのはなぜなのか。試合に出たい、勝ちたいという気持に負けた結果ではないのか。何のためにスポーツをしているのか、勝利の2文字しか無かったのではないか。そこには愛の入る余地さえなかったのだろうかと思うと胸が痛くなる。少年の冥福を祈るばかりである。 

 私は、体罰を決して容認しているのではありません。

 余談ですが・・・私に空手を指導してくださった正氣会師範の越迫先生からは理不尽な暴力や暴言を受けたことは一度もありませんでした。関大拳法部で一番稽古をつけて頂いた三澤先輩や児玉先輩たちも正々堂々と拳法の稽古をしてくださいました。

 もちろん空手や拳法は突いたり蹴ったりするわけですから稽古か体罰かの判断が難しい場合があるかも知れませんが、稽古の中で体罰だと感じたことはありませんでした。すべて自分が強くなるための稽古であると思えたことは幸せだと思います。しかし、そう思えなかった人は辞めていったのかもしれません。 

 オリンピックにおいてメダルを獲得することは非常に難しいことです。経済的に豊かでないと練習もできない水泳やフィギアスケート等々においてもメダル獲得はそんなに容易ではないはずです。柔道のように類似競技経験者でも参加できる競技はもっと厳しいでしょう。

 このことをマスコミも国民ももっと真剣に考えるべきです。競技種目によってメダル獲得の難易度は全く違うからです。つまり深く考えもせず安易にメダル獲得を期待し過ぎなのです。安易にメダリストを賞賛し過ぎなのです。だから選手も指導者も勝つために必死になるのです。確かにオリンピックのメダリストになると人生が変わるようです。

 だから人生を変えたいという野望を持って競技をする人がいても不思議ではありません。メダリストには生涯の生活を保障する国もあるわけですから、その思いは当然かもしれません。考えは人それぞれですから・・・。 

 これから、日本のスポーツ界が本当に変わるためには、世論が勝利至上主義を強く否定することです。スポーツの価値を結果よりも過程に求めることです。そうすれば生涯生活の保障のために血眼になって臨んでくる相手に勝つことは困難かもしれません。しかし、それは今まで勝利至上主義で取り組んできたからです。本当の意味で過程を大切にすれば勝利は必ずやって来ます。それまでは「産みの苦しみ」の期間があると思います。そうして始めて日本も先進国の仲間入りとなるのではないでしょうか。

 私たちがメダルを求めすぎないことです。勝てば官軍の思いを改め、誇りある敗者を賞賛することです。マスコミもその観点で放映するべきです。つまらない国威発揚の片棒を担がないことです。もっと広く国を超えて素晴らしいプレーを紹介するべきです。それがスポーツをする意義ではないでしょうか。「スポーツに国境はない」というスローガンが絵空事になってはいけません。ラグビーのノーサイドの精神を取り戻さねばなりません。まず観客として応援席で

 チーム別にならない所からでしょうか(個人では難しく、主催者が企画するべきだけど)。 

 日本にはそのスポーツがその武道が好きで好きでたまらないという選手が少ないように思います。プロのスポーツ選手でもアマチュアの五輪メダリストより練習している選手がどれだけいるかあやしいものです。プロ野球選手の肥満ぶり、大相撲の大関陣の不甲斐なさ等々。選手の多くは自らの意志というよりも誰かにあるいは何か(経済的豊かさ・社会的名誉など)のためにやらされてきた選手が多いということではないでしょうか。だから勝利至上主義に負けてしまうのです。

 結果を残すには選手の強い意志だけでは難しく、選手を応援する指導者および経済的支援が必要ですが、競技団体は経済的支援ばかりに目が向き選手や指導者の精神をなおざりにしてきたのではないでしょうか。その結果が現在の憂うべき勝利至上主義を生んだのだと思います。 

 昨年、元高校空手道部の卒業生や道場の生徒たちが私の「還暦を祝う会」を催してくれました。そのとき、出席してくれた部員たちの思い出話として、私の部活動らしからぬ指導が話題となりました。その指導内容とは、私の空手道精神の根幹を成すものであり正氣会本部道場での稽古から培われたものでした。

 正氣会本部では、攻防の基本技は教えられましたが、組手ではそれを自分で工夫しなければならないということでした。毎回、顔面を素手で殴られる稽古が当たり前でした。当てられないように自分の身を守るためにどのような技が必要かを考え、自ら稽古する(一人稽古する)ことが求められました。

 具体的には先輩との組手においては顔面や下段蹴りはできないので、中段攻撃で相手を制する有効な技と固い防御が必要ということです。また、空手とはコーチからアドバイスを受けて稽古する以上に、自分自身で足りない部分を見つけて稽古するべきものであるという考えでした。

 高校の空手道部でも同じ考えで指導していたので、試合に勝つことよりも強い空手を目標に稽古させていました。「祝う会」で「部活に行くのに恐怖を感じながら活動場所に向かっていた」という言葉を聞き、かつて私も本部道場へ行くのにいつも恐怖を感じながら通っていたことを思い出しました。生徒たちに稽古をつけていたという感覚でしたが、

 高校の部活動としてはふさわしくないですね。部活動は誰でも自由に入部できて継続できるものであることが大切だと思います。部活動をしていない生徒からも会費を徴収しているのですから・・・。

 痛い思いをさせられ恨みの言葉があっても不思議ではないのに「祝う会」を催してくれた元部員や門下生たちに、この場を借りて、深く感謝するとともに誤った指導に対して陳謝いたします。m(_ _)m  

徒弟関係や家父長制など、まだまだ日本は精神的発展途上国です。

(もちろん私も発展途上です) 

 昨日、桜宮高校バスケットボール部の元顧問が懲戒免職になるという記事を見て・・・。橋下市長のいい加減さが際立つ!

 事の重大さから考えて部顧問の免職は免れないが、今まで放置していた管理職・科長・市教委・市長の責任も当然あるだろう。今まで、体罰指導があることを知っていながら事件がなければお咎めなしで、事件が起こったら懲戒処分?勝手な言い分だ。まず市長が自分の責任を認め処分を受けるべきでしょう。

 大阪市の代表として、部活動に費やす教師の労働に対してどんな報酬を払っていたのかを問いたい。ほとんどただ働きさせておいて事が起こったら懲戒免職とはあまりにも不公平な処分だと思う。先生の部活動の手当をご存知だろうか。休日に一日部活動をしても2000円ほどだろうか。私が50代の頃は1,400円、半日ならば700円でした。若い頃はもっと少なく400円くらいだった。

 部活動ではなく授業の準備や事務処理等で一日仕事をしても0円(無報酬)です。休日に自分の子供を家において、生徒と部活動をして飲食をすれば赤字になる。ほとんどの先生方は身銭を切って部活動の指導をしている。 

 この現状を放置しておいて事が起こればその指導者だけが処分されるのなら一部の人しか指導を引き受けなくなるのではないか。そういう現実があり外部から指導者を招いているクラブもあるが、外部指導者と教師が指導する場合とで、その報酬があまりにも桁外れの格差があることを皆さんはご存知ですか?

 外部指導者なら時給2,500円ほど、これが高額すぎますか?教師なら時給300円(ただし休日の場合のみで、平日の早朝練習や放課後の練習は無給)これが妥当な額ですか?

 このような劣悪な条件で働かせておいて、当事者だけに責任を負わせるのは納得がいきません。懲戒免職となれば退職金の支給もない。裏で次の就職先を斡旋するからこの場は懲戒免職ということで世間の批判をやり過ごしましょう。という悪代官たちの知恵だろうか・・・。 

 もう一度、書きますが私はスポーツにおける体罰は指導者が陥りやすい安易な指導であり、容認してはいけないことだと思います。

父がよく言う言葉ですが

「殴って人が良くなるのなら、軍隊に行った奴はみんな良い人や」 

またまた、話題が・・・

オリンピック競技からレスリングが除外された・・・

何が問題なの???

なぜ問題なの???     

次回に

小林辰夫