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ルールと防具を考えるD 廣畑徹(031006執筆) |
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これまでは、ちょっと全空連を皮肉って書いたが、これは、全空連が主導し、いずれ空手界をまとめて貰いたいと思っているからである。なお、空手道が特にオリンピック正式種目になってもらいたいとは思っていない。利権が絡んだ大会は醜い。暴力団が入ってくる余地は空手界にはない。テコンドーのように食いもんにされてしまう。 様々な試合、様々なルール 空手を始めてほぼ30年になる。空手を始めたときに生まれた子供も全日本級の選手ならそろそろ現役を引退するかどうか迷う年頃だ。その間、フルコンタクトルールが活躍し、空手の他流派、日本拳法や合気拳法、その他の拳法、柔術、ムエタイ、テコンド、などが参加して戦う試合も開催してきた。 様々なルールを作っていつも思うのは、違うルールで育ってきた空手選手が参加できるルールを作るのは難しいということだ。また、もっと難しかったのは、ルールを運営できるだけの審判を集めることと、主審のレベルを均一にすることであった。 一度、ある試合で私を含め三人が主審したが、試合を止めるタイミングが三人三様だった。一人は学連の元チャンプ、もう一人は元芦原会館新宿支部長で、経験してきた空手が全く違っていたからである。全空連の試合で慣れている人には分からないかも知れないが、コンタクトルールは、試合を中断するタイミングによって勝敗が変わってくる。いい突きが入った、また、入れられたとしても審判が止めない以上、試合は続行中なのである。試合中に助けが入るのは全空連の試合だけ。極めたところで、その後突かれて倒されたら終わりである。 昨年だったか、全空連ルールとコンタクトルールの二つを同時に同じ場所で開催し、双方に同じ選手を出してみたことがある。全空連の強化選手二人は、その種目でともに自分の階級で優勝したが、コンタクトルールではボコボコに殴られてしまった。殴られた理由は、極め方が浅かったため主審が止めず「残身」をとったところを追いかけられて殴られてしまったのである。追いかけられて殴られるということは「残身」には値しないのだが、極めた後のゼスチャーで普通なら審判が止めてくれるところのスキをつかれた格好になってしまった。 これは、負けても弱いということにはならない。ルールが分からなかっただけの話である。この選手は「また出たい」と言ってくれた。とてもうれしかった。 そういう意味では、空手の試合は強さを決める種類のものと上手さを決める種類のものがある。それをどっちが強いとか、どっちのほうが正しいとか白黒つけること自体ナンセンスなのである。ルールにはそれぞれの目標と思惑があり、自分が目標とするルールの中で頑張ればよい。 しかし、全空連系もフルコン系もなかなか他流派の試合に出ない。いろんな試合に出たらもっともっと強くなれると思う。上から怒られるんだろうなきっと。人間が二本の手と二本の足を使って突いたり蹴ったりすることに、寸止めだからとか、フルコンだからとか、他流試合は禁止されているとか、拳法だからとか、テコンドーだからとか区別しすぎだと思う。その試合のルールに準じていればいろいろ経験すればいいんじゃないかな。 これを見た組織のエライサン!もっと選手をいろんな試合に出ることを許してあげてください。きっと感謝すると思います。 空手の試合はどうあるべきか?(私如きに答えは出せませんが) 空手、拳法、テコンドー、ボクシング、ムエタイ、中国武術、またその他の武術、これらは、人間が自身の手と足などを使い、自分自身を守り、かつ相手を倒す方法をひとつの理論で纏め上げたものである。そして、それらはどのような経路で普及したか、また、どのように発展したかはこの際、特に問題ではない。そして、それらの戦いには必ず教本やルールというものがある。 それら武術のなかには、何百年と続いている武術もあるし、それらが発達した時代の背景には、足や手が自由に使えなかった人たちが、自分が動ける範囲内で支配階級を相手に戦ったという事実が実際にはあった。それらの術技を伝承、系列化し、まとめあげたものが、今に残っている各武術の基本であろう。 その基本となるものをいろいろ研究してみるといろいろなルーツが分かって面白いと思う。 では空手とはどのような武術だろうか?そして、その修練の度合いはどのような試合形式・試合ルールによって見極められるのだろうか? 空手の形の分解を見ていると、宗家から伝わっている空手というものは、打撃(突き・打ち・蹴り)に加え、柔法的なものが入り混じっている。形の分解を修練した者なら分かると思う。しかし、その動きは、俗に言う「絵に描いた餅」的なものが多く、今の試合形式とはほど遠いものである。それが別に悪いと言っている訳ではない。 もともと、空手の試合というものは、その修練のレベルがどの程度に達しているかを試す公の場である。昔の剣術の試合は「命」のやり取りもあったが、現代の武道の試合ではそのようなことはありえるわけはなく、危険度の少ないルール設定の中で競技として行われる。そして生まれたのが全空連の前身の試合である。 「当てれば怪我をするのでその寸前で止める(極める)」「止める(極める)だけではなく、相手が倒れるのを確認するために残身する」というようなことを形に準じて取り決め、沖縄から本土に来られた先生たちが中心となり、審判を立会いとし試合を始めたのがきっかけである。(違ってたらごめんなさい)それが学連を中心とした全空連のスタイルとして改良されながらも現在でも続いている。 また、そのころ、防具つき組手を実践する人たちもいたが、現在のようにいい防具も開発されておらず、彼らは、剣道の防具、またはそれに近いような防具をまとって組手していた。その時の試合を見たことはないので何ともコメントできないが、恐らく今の日本拳法みたいにスピーディーに動けるものではなかったと思う。 諸流派の隆盛 空手試合の発展途上においては、いろいろな試合形式、ルールが生まれてきた。寸止め的な試合を嫌う者は、直接打撃を認めるフルコンタクト系のルールを生み、防具着用ルール、拳サポーターの変わりにボクシング用のグローブをつけて試合する空手試合も出現した。 一言に「フルコン」と言っても、極真のような上段突きなしのルールで行うものから、顔面に防具を着けて上段突きありでポイント制をとるもの、顔面は寸止めし、首以下を直接打撃するものなど、何十種類にも分かれている。これらはほとんど「空手」の試合(一部拳法の試合もある)である。同じ「空手」でもラグビーとアメリカンフットボール以上に違うと言っても過言ではない。 しかしこれらのルールは、どれが正しいというものではなく、各自、考えるところがあって存在している。本来、素手で顔面をも攻撃して優劣を決めるところ、その行為が危険すぎるので、実践に近いと思われるいろいろなルールが生まれてくるのは当然であろう。 試合のルールがその武道を左右する 結局、私が思うに、その武道が栄えるとか衰退していくというのは、その武道が催す試合によるところが多い。その試合及びそのルールが競技者または一般の方にも理解され、好反響を及ぼすと競技者は自然に増えるものである。 しかし、武道は試合だけではない。その奥深さは神秘的なものがある。いわゆる東洋の神秘というものだろうか。その伝統を後世に継承し、その武道を通じて自分の人生を見極めるのも武道を習得する上で最も大事なことだろうと思う。 でもやっぱり、試合は面白いものであったほうがいい。どっちが強いんだろう、誰が優勝するんだろうか?などと考えるとワクワクしてくる。そういう意味では、今度の全日本空手道選手権は誰が優勝するんだろうかと競技者、関係者以外の人で思う人はいるだろうか? そういう誰もが興味を示すところをついたのが、やはりK-1でありPRIDEだったんだろうと思う。やっぱり見てて楽しいもんな。でもあれは、あくまでプロの興行であり、桁違いの金が飛び交っているのも事実である。 既製ルールの見直しと伝統の継承 Eに続く。
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